2004年

ーーー4/6ーーー 息子の門出   

 1年間浪人していた息子が、この4月から晴れて大学生となった。というわけで4月1日、普段と何も変わらない様子で有明の駅から大阪へ旅立って行った。彼がこの地に戻ることは、この先ほとんど無いだろう。

 図体が大きくて、甘えん坊の息子は、親にとっては幸いなことに、何の問題もなく育ってくれた。自宅で勉強をする姿はほとんど見た事がなかったが、学業の面で落ちこぼれることも無かった。囲碁とか手品とか瓢箪栽培とか、若者にしてはちょっと変わった趣味にいそしむ、温和な子であった。文学や映画、クラシック音楽などが好きなのは、私ゆずりのものだったのか。性格が穏やかだったのは、家内の血であろう。

 息子が私の仕事を引き継いで、木工家になってくれたら良いと考えたこともあった。今まで養ってきた子供が、こんどは家の中で稼ぎ手になってくれる。働き手が二人になっても、出て行くものは同じなのだから、工房の経営は楽になるだろう。私が作り上げて来た世界を引き継いで欲しいとの気持ちもあった。親子で仕事をやっていく姿を夢に描いた。しかし、自分がやりたい事は他にあるとの息子の意向を、曲げて従わせるつもりはなかった。

 長女が4年前にやはり進学で名古屋へ行ってしまったときも、寂しかった。しかしその時は、初めてのことだったので、未知の世界を経験する楽しさのようなものがあった。今回は純粋に寂しい気持ちになった。

 中3の次女も、あと4年もすれば出て行くのだろう。時は無情にも行き過ぎ、生活は否応なしに変わっていく。仕方のないことではあるが、穏やかな気持ちで受け入れることはなかなか難しい。

 ともあれ、子供が家から出るということは、手がかからなくなるということである。これからは仕事に没頭できる時間も増えるだろう。会社員ならリストラの年令かも知れないが、私の仕事はまだまだこれからである。




ーーー4/13ーーー 槙野氏の新作を見る

 
大町市在住の木工家具作家槙野文平氏から、夜突然電話があり、すぐに来いという。氏とは年に数回会う程度のおつき合いで、向うから話があることなど滅多にない。用件は、さっき出来上がったばかりの新しい椅子がすごく良いから、見に来いというのである。私は酒が入っているから出かけるのは無理だと言ったが、しつこく来いと言う。ひとしきりやりあった後、やっとのことで断った。

 翌日の夕方、一本携えて訪問した。ところが、氏は既にひどく酩酊しておられた。朝から飲んでいるとのことだった。「あんたにしかこの椅子の良さは分からない」などと、わけの分からないことを言いながら、その椅子を見せてくれた。

 いつも通りの氏の作風のものであったが、ひときわ良い形の椅子であった。荒々しく、野性的な外観ながら、たいへん整った、魅力的なフォルムであった。そのような感想を述べると、氏はうつろな眼で嬉しそうに笑った。

 氏は常々私の作品のことを「やり過ぎだ」と言っていた。きっちり丁寧に作り過ぎるのだと言う。特に私の椅子の、削り出しから始めてツルツルになるまで磨き込んだ、滑らかな曲線の連続を、「見ていてイライラする」などと酷評する。しかし、好みは別として、品物は素晴らしいと褒めてくれる。機能と美しさという、椅子として必要なもの全てを備えていると評価してくれたこともある。

 私は、氏のような作品は作れないし、今のところ作るつもりも無い。私の作風とは180度違う世界である。しかし、そんな私も、氏の作品には何か惹かれるものを感じる。やることが全く違うから、逆に憧れるものがあるのかも知れない。

 木工家具作家と呼ばれる人々の中には、道具自慢、腕自慢の連中も多い。気取った形態で、精密な加工を駆使した作品のみを評価して、槙野文平氏が作る作品のようなものを荒削りとか粗野だとか低く見る声もある。しかし、そのような批判を述べる連中の何人に一人が、氏のように個性的で、独特の魅力を感じさせる作品を作れるだろうか。



ーーー4/20ーーー 自己責任という言葉

 イラクの人質事件以来、「自己責任」なる言葉がマスコミ等で取り沙汰されている。私は、このような言葉使いが妙に気になる。試しに数冊の辞書で調べてみたが、やはりこのような言葉は載っていなかった。つまり、日本語にこのような言葉は無いのである。

 他者責任という言葉が無いのだから、自己責任などという言葉が存在しえないのは当然であろう。責任とは、本質的に自己のものであり、それ以外の何ものでもないはずだ。では何故ここへ来て、自己責任なる重複表現まがいの言葉が使われているのだろうか。

 元外務大臣が、テレビ番組における発言の中で、ポロリと本音を出していた。曰く「政府が避難勧告をしている地域に、危険を承知で出かける人は、自己責任でやっていただきたい。しかし、自己責任で出かけた人でも、仮に今回のような事件に巻き込まれれば、政府として見過ごすことはできない。どのような状況であっても、邦人保護は政府の使命だからだ。ただ問題なのは、避難勧告をしなければならないような地域では、政府による救援活動が大きく制限されることもある。場合によっては、政府の努力にもかかわらず、最悪の事態を招くこともあるだろう。そのような結果になったときに、政府のせいにすることは、止めていただきたい」と。

 つまり自己責任とは、他者の責任にして欲しくないということの裏返しなのである。何か事件が起これば、すぐに行政や政府の責任だとして追求し、攻撃するのがこの社会である。行政として「不本意な責任追求」を避けるための防衛線が、この言葉の真の意味なのであろう。

 行政関係者の心情は、これで理解した。しかし、マスコミや一般市民が声高に自己責任という言葉を使うのは、いまひとつ解せない。責任の所在を他人に押し付ける一方、自分では責任を取りたがらない社会体質の現れか。あるいはそれに対する自嘲の念が、無意識のうちにこの言葉を使わせているのか。

 ところで、与党関係者の中の荒っぽい連中は、「自己責任だから、救出に掛かった人件費などの費用を、本人や家族に弁償させろ」との意見を表明している。これは、先に述べた元外務大臣の本音発言と比べても、はなはだ道理を欠いたものだと思われる。

 政府が正当に支出した費用を、個人が弁償することなど有り得ない。過去、科学技術庁のロケットの打ち上げが何度となく失敗したことがあった。国民の税金を無駄にし、国民に迷惑をかけたのだから、関係者はかかった費用を個人的に弁償しなければならないか。そんなことはないだろう。結果がどう出ようとも、不測の事態になろうとも、国が自らの判断で行なった行為の結果は、国家としてそれを引き受けなければならない。

 上に引用した元外務大臣の発言にあるように、国民の生命を守るのは国家の使命である。原因が何であれ、そのような事態が生じれば、最善を尽くしてそれに当る以外に国の判断のありようはない。仮に、法律に違反した者が救助の対象であったとしても、国の取るべき態度はゆるぎ無いはずだ。ましてや、何ら法律に触れることをしていない人々が、彼等のために国民の税金が使われたというだけで、その費用を弁償する義務などあるはずがない。

 感情としては、独断的な行動で世の中を騒がせた人々をぎゃふんと言わせてやりたい気持ちも分からないではない。迷惑をもたらした人に対して、正しい論拠で諭すことは、当然なされるべきことであろう。しかし、無茶苦茶な論理を振り回して、まるで弱いものいじめのようにして攻撃し、あるいは誹謗中傷をもって威嚇するのは、立派な人間が行なうことではないだろう。

 様々な人の個性が尊重され、生き方の多様性が認められることによって、民主国家が維持されるのだと思う。全体の流れにくみしない少数派の人々を、村八分のようにして攻撃し、排除しようとする姿勢は、全体主義社会につながるものであろう。そのような右へならえの社会がもたらす愚は、我が国も過去に十分なほど経験済みだったはずである。

 米国のパウエル国務長官が、救出された三邦人のことを「自らの信念にもとずいて、危険も顧みずに行動をした、勇気ある人たちだ。日本は彼等を誇りに思うべきだ」との談話を発表したとか。いきなりこんなことを言われても唐突な気がするが、米国という国は、そのように向こう見ずな挑戦者たちの、数限り無い勇敢な行動によってここまで発展したのかも知れない。そんな思いがパウエル長官をしてこのような発言をさせたのか。



ーーー4/27ーーー ホームページの1年

 このホームページを開設して一年が経った。立ち上げるときは、右も左も分からない状態で、四苦八苦した。現在でも、パソコン操作に関する知識はその頃と大差ないほど貧弱である。しかし、「慣れ」のおかげで、ホームページの管理は苦にならなくなった。

 このホームページは、大竹工房の仕事を紹介するためのものである。このサイトよって木工家具の注文が増えたら良いという願望があった。しかし、一年を振り返ってみて、このサイトが直接の引き金となって成約した仕事は一件もなかった。

 受注効果とは別に、私のメッセージを発信するというのも、目的の一つであった。このサイトで私のメッセージを読んだ人が、意見なり問い合わせを寄越してくれて、交流が生まれれば良いと思った。しかし、こちらの方も、この一年間、ほとんど全く反応が無かった。

 これほど手応えの無いものがあるだろうかと感じることがある。インターネットというものの一つの面なのであろう。何か事件があれば、一夜にして十万件ものメールが殺到するのもインターネットだし、一年間かけて一つの反応が無いのも、またインターネットという相手の顔が見えないシステムの実態なのである。


 愚痴を言い出したらきりがない。本業の方ではそれなりにがんばっているのだから、この余技に関しては、あまり欲を張らずにやっていこう。




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